Ensemble Planeta
アンサンブルプラネタとの付き合いはかなり長い。最初のアルバムを出す前と思えば15年以上だ。
当然長く続けているプラネタのレパートリーも半端ない数だ。100曲なんて軽く超える。
楽譜を早く出版したいのだが、その時の状況や歌うメンバーに合わせてアレンジを毎度変えているから整理が難しく、ときどき楽譜が見当たらないとロングリバーブの録音から自ら耳コピするという苦行を強いられる。
プラネタはメンバーの声にぴったり合うアレンジを毎度私が仕立てるオートクチュールというわけだ。
活動は海外のフェスティバルやイベントに呼ばれる事が多く、私も何度か一緒に行ったりレクチャーをしたりした。
その時に一番悩むのが選曲だ。要望として「できれば日本の曲をお願い」が多い。
日本ぽい曲は「日本では埴生の宿ですが本当はイングランド民謡です」的な曲が多く、唱歌と言われて皆が日本と思っているものはほとんどがパチもんだ。君が代の次に歌う蛍の光だっていかにもな日本語歌詞があるからじーんとしてしまうが当然スコットランド民謡「Auld Lang Syne」だし、あちらの準国歌である。それでも心に染み入るのならば歌詞の力が立派なのだしそれはそれで立派なアレンジと思うのだが。日本の歌よ!と歌うと「あらら、、歌詞つけちゃって何言ってるかわからないけどそれウチの古い歌よ」と海外で言われてしまうとちょっと肩身が狭い。
そうやって日本の歌を厳選すると今度はうら寂しい子守唄、歌詞解釈不明の謎の童謡となってくる。しかも抑揚がちょっとあるだけで8小節くらいをただ繰り返す。よくよく思えば日本語というのは言葉そのもので短歌のように歌として完結なわけでそれに派手なメロディなどいらないのであろう。
何度も子守唄や民謡を聴いていると「あれ、これグレゴリアンチャント?」みたいにも思えてくる。
どちらも言葉先行で歌い回しのためにメロディがあるわけで、踊るためでもワイワイするためでもなく出来てきた歌だから似てて当然か。本来歌なんてパチもん、替え歌で派生していくのだろう。と、、いろいろ根底に漂うものをプラネタの発声で伝えていけば不思議と日本が滲んでくるのかもしれない。
初期のプラネタでは標語が「禁欲」であったがもはやその域に留まらない自由で独自のアカペラに進化した。清く正しいプラネタとのクラシック活動は私の重要な一部だ。皆が歌う限り仕立て屋を続けていければと思うのであった、ぞ。と
24日からワシントンで始まるアカペラフェスティバル「Serenade!Washington,D.C Choral Festival」で多数演奏あり。
是非どうぞ
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