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2015.01.15 Thursday

蟹と鯨

年末年始に大風邪をひいてしまい読書三昧で過ごした。その中に小林多喜二の「蟹工船」もあった。再読にもかかわらずやはりどうもピンとこない。もやぁーっとしたのでそういえば極貧漁モノでいいのあったよなあ、とまた再読したのが宇能鴻一郎の「鯨神」であった。これはやはり良かった。主人公は家族全員殺された大鯨の仇討ちに命がけで立ち向かい死闘の末、命をとりとめ富も嫁も手に入るというご褒美があるものの一切を拒否し最後は浜でその大鯨の「鯨神」の死骸と共に静かに横たわり「お前らは実にすばらしか奴らじゃ」「お前らもじゃ、、」と互いに語り合いながら果てて行く。というまあ一言でいえばそんなのだが土俗的エロスが満ちていて圧倒される。読んだ後に動物愛護家の私が「いやあ捕鯨こそ世界遺産だ!捕鯨文化を残せ!」と思ってしまった。もちろん小説の中では捕鯨問題なぞ微塵もとりあげていない。とにかく胸が熱くなる小説という形を全うしている。

そもそも蟹工船を読もうと思ったきっかけは小林多喜二の母が題材の本を読み「え、、あのつまらなかった(失礼)蟹工船の作者の母ってこんなにも愛にあふれた人だったのか、私も寛容にならねばなあ、しかし息子殺されてかわいそう」であった。本当の貧困から共産党に目覚めそして拷問虐殺にあい若くして死んでしまう子を持った母、、なんてもう涙涙で、思わず蟹工船を読んでしまったのだ。今読めば少しは多喜二の熱き思いがわかるかなあ。と。
が、さっぱりわからぬ。「船はノミシラミで糞まみれだとぉ、、蟹缶食べる気なくなってしまいますぅ」で終わってしまった。もちろん共産党員になりたいとももちろん思わないし、どこがアカ思想なのかすら嗅ぎ取れぬくらい今となっては熱いというよりうすぼんやりしたものである。まあ逆にいえば当時の言論規制は半端なかったのか、と唖然とするのだが。小説という視点で見れば思想をちりばめたかった作品というのはあの時代のビラのようなものだったかもしれぬ。

はたまた宇能鴻一郎はもともと士族の出で裕福、一発芥川賞を「鯨神」でとってからは官能小説ばっか書いて自邸でパーティ三昧の貴族的生活を送っているとのこと。ケ、金持ちのくせにあんだけの極貧無欲の極みを書いていやがる。なのであるが作者がどう暮らそうが何を考えようが、その後エロ作家になろうが彼の作った50年前の小説というモノは一人歩きして私の思想を覆す。

ふと、表現で人の思想を変えるというのはかなり深い所からでないと無理なのねえ、と。ビラじゃだめね。と。
作品そのものの力でしか心は動かぬのではないか、と思ったのであった。
しかもその心が動く矛先はもはや未知数であって作者には制御できぬほどの力を持ち得るはずだ。と、。
ということで心が深く動かされた
宇能鴻一郎の作品で未読の「べろべろの、母ちゃんは........」を読んでみるしかないぞ、と。

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